04 「現場の経験は学者の理屈に勝る」、と思うんだけど・・・:日経ビジネスオンライン

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 多分野の知の出会い、掛け合わせのために、経済学の考え方が必要だとシノドス(シノドスの詳細はこちら)が考えた時に、若手経済学者としてテーブルについたのが飯田泰之氏です。

 飯田氏は『日本を変える「知」』(光文社、シノドス編集)に『「経済学っぽい考え方」の欠如が日本をダメにする』を寄稿し、続く『経済成長って何で必要なんだろう?』(光文社)では日本の格差や貧困について現場の論者と対談を行っています。近著は『脱貧困の経済学』(飯田泰之・雨宮処凜,自由国民社)です。

 自分の身の回りを取り巻く現実の諸問題をどう考えたらいいのか、「経済学っぽい考え方」から見たその処方箋を、飯田泰之氏に伺いに行きました。まずはプロローグ編。そもそも経済学って、そして経済学者、エコノミストの言うことって、それ信じる根拠はどこにあるの? というところからお話はゆっくり浮上していきます。(聞き手:日経ビジネスオンライン編集 Y)

話者プロフィール

飯田 泰之(いいだ やすゆき)
1975年東京生まれ。エコノミスト。東京大学経済学部卒業、同大学院博士課程単位取得退学。現在、駒澤大学経済学部准教授。内閣府経済社会総合研究所、参議院特別調査室等の客員を歴任。専門は経済政策、マクロ経済学。主著に『経済学思考の技術』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『考える技術としての統計学』(NHKブックス)、『昭和恐慌の研究』(共著、東洋経済新報社、第47回日経・経済図書文化賞受賞)など。ブログ「こら!たまには研究しろ!!」。

――というわけで「経済学っぽい考え方」に興味津々、でも本当に信じていいのかどうか、本日は経済学者の飯田さんに根ほり葉ほりお聞きしたいと思いまして。

飯田 あ、僕、自分自身で経済学者とはあまり名乗りませんよ……。なんというか、学者というとなんか上から目線な気がしてどうも苦手で。だから、肩書きを自分で選べるときは「エコノミスト」と名乗ることが多いです。これって単に英語に直しただけですけど。

――そういえば、経済学の専門家って経済学者、エコノミスト、経済評論家と肩書きがばらばらですよね。それぞれの違いって何なのでしょう?

飯田 この区分はきわめて日本的に決まってる感じですね。大学の経済学部に所属しているならば経済学者、官庁やシンクタンク、企業の調査部あたりに所属していればエコノミスト、組織に属さずに経済を語っていれば経済評論家、というのがおおまかな傾向でしょうか。英語ではこれら全て「エコノミスト」です。だから僕もエコノミストというわけ。

――なるほど、それは実感にとっても近いですね。ところでエコノミストと言えば、東谷暁氏が「文藝春秋」2009年7月号で「エコノミストは役に立つのか 25人採点」という記事を書いてらっしゃいますね。

危機の予想、結論の一貫性は評価軸になるか?

飯田 あの格付けこそが「役に立つのか」。立たないと思いますね。「今サブプライム問題による金融危機を予想できたか否か」という評価方法自体が、経済学を根本的に誤解している証拠でしょう。エコノミストは予想屋ではありません。

――誤解とは?

飯田 エコノミストの役割はむしろ医者に近い。加藤涼氏の言葉を借りるならば「私は来週風邪を引くでしょうか?」という質問は、それ自体ナンセンスですし、これにすらすら答える医者はむしろ信用できない。エコノミストに求められているのは金融危機への効果的な対処法を論じることであって、予言ではないのです。

――同記事では論理の一貫性も重視されています

飯田 論理と言うより、援用する理論や結論の一貫性といった方がいいでしょうね。ただ、援用すべき理論は状況によって変わるので、必ずしも一貫している必要はありません。再び医者のアナロジーを変えると、病状が違うときに処方が異なるのはむしろ当然でしょう。提案する政策が一貫しているというのはもっと問題です。状況が違えば提案は異ならなければいけないのです。

――ああ、なるほど。結論というのは理論から導かれるものだから、あまりにも結論が首尾一貫しているということは、逆に理論のほうがフラフラしているということだ、と。

飯田 でも、そのほうが主張がはっきりしているように見えるでしょう?

――短い時間でぱっと結論だけ述べるテレビ番組の議論なんかじゃ、どうしてもそう見えますね。

飯田 ですから、前に自分が言ったことを正当化するために理屈の方を変えようとする人が多いんですよ。

 例えば野口悠紀雄氏は『未曾有の経済危機 克服の処方箋  国、企業、個人がなすべきこと 』でがつんと「結論」を変えました。こんなに経済の状態が悪くなったんだから、「結論」の方はがらっと変えますという、その姿勢のほうが正しいと思います。

――なるほど。

飯田 さらに、数字が出てくる話を全然しないエコノミストも結構いるんです。なんというか「雰囲気と情緒」だけのエコノミスト。

 それはもう、『日本を変える「知」』に書きましたけど、いかがなものかと。じゃあ何を語るのかというと、素人の社会学者みたいな話しかできない。「経済学者が言っているから、きっと経済学っぽいんだろう」と思われるでしょうけど、違うんですよ。



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飯田 その人は経済学者としてではなくて、素人社会学者としてしゃべっている。そんなのは気の利いた社会学者だったら、すぐひっくり返しますよ。社会学の基礎のない、素人の話ですから。経済学の素人の議論の間違いを、僕が簡単に指摘できるのと同じです。

理屈は現場体験に勝るのか

――いまのお話は、専門家対専門家の話ですよね。でも、このお話を読んでくださる日経ビジネスオンラインの読者って、私の認識では徹底的に「現場の人たち」なんです。だから飯田さんには大変失礼なのですが、これを読んでいる間も「商売をしたこともないようなやつが、経済のことを語るんじゃねえ」という気分が、どうしても抜けないんじゃないかと。・・・私も実はちょっとそう思っているんですけど。

飯田 実を言うと、僕は「世の中理屈じゃないんだよ」という理屈は、まったく正しいと思うんです。

――え。

飯田 理論・理屈というのは、正しく蓄積され、整理された経験の代用物に過ぎません。

――理論は代用物、ということは、「理屈より経験だ」という感覚そのものは、間違ってはいないということですね。

飯田 はい。きちっと蓄積された経験があれば、理屈はいらないんです。

 だけど、「言うほどたいした経験してないでしょう」という人も少なくない。また、自分の身の回りだけで収集した経験と勘というのは、状況が変わってしまえば、役に立たない。つまり、非常に特殊性の高い理論を自分の中で構築しているに「すぎない」んですね。

――ははは、そこまで言われると、逆にすかっとしますね。

飯田 各分野や現場には圧倒的な経験とそこで培われた勘のある人というのは確かに存在します。僕は足かけ7年、内閣府経済社会総合研究所の客員をやっていますが、官庁エコノミストには各世代に一人くらいそういうもの凄く勘のいい人というのがいる。しかし、それこそが若いビジネスマンに統計とか経済理論を学んでほしい理由です。

――なぜですか。

飯田 だって、経験と勘ではいつまでたっても上の世代に勝てないでしょう?

「経験の正しい蓄積」はとても難しい

飯田 『考える技術としての統計学』という本に書いたのですが、統計的な手法、理論的な手法というのはあくまで経験の代用物です、ということです。

 しかし、経験は、えてして個々人のバイアスを持って記憶される。ですから、正しく蓄積された経験に理論が勝つことはない。しかし多くの場合、経験や記憶というのはどうもあてにならない。1回しかなかったことだけど、何となく覚えていたりするものです。例えば、自分の昇進のきっかけになった案件だけ妙に覚えていたり。

――それはありますね。成功体験は深く覚えてます。

飯田 失敗体験はなるべく早く忘れたい。実際にそういう機構がないと、人間、心理的に持たないそうです。それは人間の心理として正しいんですけど、このゆがんだ記憶が自分の蓄積した経験をどんどん役に立たないものにしているんですよ。成功も失敗も、正しく経験として蓄積されていれば、経験に勝るツールはないと言えるんですけど……

――実際にはそういう人はなかなかいないと。

飯田 こういうゲームがあるんです。毎回被験者は紙に自分が思いついた単語を書く。それに対して通常は1ドルの報酬が手渡されます。その一方で、時々ランダムに10ドル渡すんです。何も言わずにこれをやり続けると、プレーヤーは「10ドルもらえたときは、自分の書いた解答がきっとよかったんだな」「どうも難しい単語を書くと正解みたいだぞ」という、自分なりの理屈を作り始めるんですね。実際は完全にランダムに渡しているにもかかわらずです。



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飯田 そして「10ドルはどういう理由で渡されたと思うか」を問われると、蕩々と自分の解答について、こういうところが良かったんだと思うって自己分析しちゃう。本当は理由なんて無いのに、何かすごくしっかりした「経験と勘に基づく理解」をしてしまうというわけ。

 例えば、ある営業マンが飛び込み営業で契約を一件とったとしましょう。その次の考課で彼は昇進したとする。実はその昇進はその案件をやる前から、「あいつももう10年もヒラなんだから、そろそろだろう」と言われているだけだったのに、すごくその体験だけが頭に残るんですよね。

 昇進したそのとき、たまたま飛び込み営業で稼いだ。なので、「飛び込み営業というのは本当に大きい成果が出せるんだよ」というバイアスがかかる。よくよくデータを取ってみると、飛び込み営業は一番営業効率が悪いかもしれないのに、成功体験とリンクしているととても印象的に覚えてしまう。

――人間ってそういう生き方をするようなプログラムがあるんだろうなという気がしますね。

飯田 そうなんです。映画「レインマン」じゃないですけど、何も忘れられないと狂っちゃうんですよね。

――頭の中で自分に心地いい物語を自分勝手に紡いでいるということですよね。

飯田 なので、経験を正しく蓄積するのは極めて難しい……

――うーん。いくら現場の経験を重ねても、人間らしさが有効利用の邪魔をする、ということか。理屈より経験、と思っていたけれど、経験で自分を騙さないためには、理屈も必要・・・。

飯田 人間がいかに「法則性を発見するか」という視点は面白いですよ。ロールシャッハ・テストというのがあるでしょう?

私達はインクのシミとチャートの動きに物語を見る

――インクを垂らした模様を見せるテストですね。

飯田 そう、インクを落としてぱたんとやって、開いただけなんですよ。だけど、人間って、その模様を見て何かを認識しちゃうんですよね。それと全く同じ論理構造を持っているのが相場におけるテクニカル分析です。

――あ、証券部にいたときによく証券会社の方が聞かせてくれた、株価の分析ですね。

飯田 チャートの本を読むたびに「人っていろいろなおまじないを考えるんだなぁ」と感心します。テクニカルの本を読むと、株価のチャートにいろいろなサインが書き込んであって……何とかのサインが出たときは「売り」とか「買い」とか書いてある。そしてどれもこれも当たった例だけ載っているわけです。本屋で暇になると時々テクニカルのコーナーで立ち読みしてみるんですが、和みますよあれは(笑)。

 テクニカル分析はまさにロールシャッハ・テストと同じです。人間は「何かを見ると何かに当てはめようとする」生き物なんです。で、当たったときだけ「テクニカル分析は凄い」って印象を心に刻み、外れたときは「まぁこんなこともあるよね」とすぐに忘れてしまうというわけ。これを心理学ではセレクティブ・メモリと呼ぶそうです。

 セレクティブ・メモリに限らず、占い師は様々な手法を使って人を「信じさせ」るんです。そして、その技法は占いに限らず詐欺、そして政治・経済・社会を語る場合にも多用される。拙著『ダメな議論』では、テクニックによる説得がうまくいきすぎて多くの人に信じられるようになってしまった、経済の誤った常識について説明しています。ホントにいろいろな技術がありますよ。

――ネタがいっぱいあるから、なんでも説明できちゃうわけですね。

飯田 その通り。話をテクニカル分析に戻すと、数十種類のテクニカル指標のなかには「ここ一ヶ月の株価の動き」をうまく説明するものが1個くらいはあるでしょう。問題は今週はどのテクニカル分析が「当たり」なのかは誰もわからないというわけ(笑)。

有名なのは三尊と逆三尊というやつですけど、これなんかは、「まあ、1年分のデータを見ればそんな日もあるぜ」という程度です。そうじゃない日の方が多いのに、あれを信じられるのが人間の面白いところです。

――マネー誌などでは必ずテクニカルのコーナーがありますね。

飯田 それは、どの雑誌にも占いのコーナーがあるのと同じだと理解しておけばよいのではないでしょうか。それよりも問題なのは株式や為替の取引で大もうけした人の体験談の方でしょうね。

――でも、経験は重要ではあるわけですよね。



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飯田 ところが相場だけはそうでもないんです。もちろん証券会社の調査部に長い人やベンチャー企業への融資や出資で成功した人とかの経験談は(それがきちっと整理されていれば)有用ですよ。しかし、売買益で大きく儲けた個人投資家の話は聞いても意味がありません。

相場での売買はゼロ・サム・ゲームです。安く買って高く売った人の裏には必ず安く売って利益を逃した人、高値をつかんでしまった人がいます。誰かが得をしていれば誰かが損をしているという意味で、生産活動や資金提供とは性格が違う。

話を簡単にするために丁半ばくちで考えてみましょう。1/2の確率で資金が倍になり、確率1/2賭け金を失うようなゲームです。1万円から丁半ばくちを初めて3億円にした人がいたら……

――ネット上でのいわゆる「ネ申キター!」ってやつですよね。

飯田 さぁて……それはどうでしょう。丁半ばくちに15回連続で勝てば1万円は3億2768万円になります。さて日本人全員……そうだな、1億2000万人で一斉に丁半ばくちを始めると3億勝つ人は何人くらい出ると思いますか? 15回連続で確率1/2を当て続ける確率は3万2768分の1です。つまりは日本には「ネ申」が3600人以上いる計算になる。

――つまり、確率は低いけど「あり得ない」ことではまったくないんだと。

飯田 ネット上に出没する「ネ申」としたら、いい感じの数かもしれませんけど(笑)。

成功はかならず偶然がからむ。その度合いを読むには

飯田 ちなみに、個々の企業の株価を予想することは出来ません。これは「予想できる理論がみつかっていない」のではなく、「予想できないという理論が証明されている」話です。株式投資をやっている人は多いですから、なかには10回20回つづけて偶然勝ってしまうこともあるというわけ。 ここで先ほどの心理学実験を思い出してください。たかが10ドルをもらったプレーヤーでさえ自分の中でオリジナルな「成功の法則」を「発見」します。いわんや何億もうけたトレーダーをや、というわけです。

 偶然の成功者の「成功の法則」から学ぶことはありません。年末ジャンボ宝くじに当たった人に当選のコツを聞く人はいないでしょ? 聞いて参考になる経験談と聞いても意味がない経験談というのがあるんです。

――それを見分けるためには。

飯田 ひとつは統計的な事実と照らし合わせてみることです。あとは、人の成功のどのくらいが偶然で、どのくらいがその人の能力なのか――それを見極める力です。もちろん完全な正解は無理でしょうが。全ての成功、全ての失敗は実力だけで決まっているわけでも運だけで決まっていくわけでもありません。必ず両者がミックスされている。そして、経済学っぽく考える習慣があると、少なくとも運と実力のどっちのウェートが高いのかは見えてくるようになると思います。

――ではその「経済学っぽく考える習慣」を身につけるにはどうしたらよいでしょう。

飯田 そうですね。日経ビジネスオンラインを読むとか(笑)……あながち冗談ではなくて、ひとつには経済に関する情報を定期的に入れるというのは良い方法だと思います。自分の宣伝ばかりで恐縮ですが、私、メルマガ(※)のなかで、そのものずばり「経済学思考の練習問題」という連載をやっているんです。経済学的に考えてみる訓練を日常の中でやってみるといいんじゃないかと思いますよ。

――なるほど。ではちょっとここで体制を立て直しまして(笑)、そもそも経済学そのものの理屈がなぜ信ずるに足るのか、に戻して、お話をうかがってもいいでしょうか。

(次回に続く)

(※荻上チキ氏が編集長の「αシノドス」)

飯田泰之×若田部昌澄×橋本努
「経済学の構想力 ― 日本をデザインする」

 飯田泰之氏が司会のシンポジウムが開催されます。こんどは光文社さんとシノドスの共催ですね。

 選挙が終わっても、日本は「自由放任」と「計画経済」の二極の間を感情のままにゆれうごき、時間を無駄に費やすのでは、と案じる方も多いのではないでしょうか。

 このイベントは、経済思想(橋本努氏)、経済理論(飯田氏)、経済学史(若田部昌澄氏)の3つの柱を立て、日本経済のヴィジョン、システム、政策のデザインを語り合い、お互いの「知」に橋をかけ合った上に、説得力のある「日本のデザイン」を作り出そうという試みです。これは面白そう。私(Y)も是非行ってみたいと思います。リンクはこちらから。